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寿司BL

 

 

 マグロはとっくに覚悟を決めていた。市場であの男に買われた瞬間から、自分はもう自由を手にすることは出来ないとわかっていたのだ。気ままに海を泳いでいた日々は遠い過去になった。あとはあの男からされるがままに、自分の体は蹂躙される他ないのだ、と。

 しかし、待てど暮らせど男は自分に手をつけることはなかった。身をさばいた直後から冷蔵庫に寝かせたまま、マグロのことを見向きもしなかった。薄暗い冷蔵庫の中に放置されてマグロは思う。

 もしかして男は自分にじわりじわりと恐怖を蓄積させるために、自分のことを放っているのではないか。自分に待ち受ける絶望的な未来を想像させることにより、煮るなり焼くなり酢でしめるなり好きにしろと決めたこの覚悟を揺らがせて、精神を完全に掌握する腹積もりなのではないか。そんな不安に満ちた予想がマグロのカマをよぎる。そうなると、自分を買った男は相当にサディスティックな輩であり、その思惑は狙い通りに進んでいる。

 そして冷蔵庫に寝かされて三日目、ついにその時は訪れた。心身共にすっかりくたびれていたマグロの眼前に飛び込んだのは、冷蔵庫の扉は突然に開かれ、自分を買って冷たい世界に閉じ込めたその男……板前の姿だった。まるで死んだ魚のように冷ややかな目で、こちらを見つめてくる。おもむろにマグロの切り身を掴むと、その身を吟味し、不敵な薄ら笑いを見せた。

 すでに意識がトビッコしかけていたマグロだったが、負けずにつっぱってみせる。

「ふん、ちょっと放置しすぎたようだな。腕のない板前にはわからねえだろうが、魚っていうのは鮮度が命なんだ。見ろよ、俺の身体はすっかり黒ずんでいる。もう捨てる以外ないんじゃないか?」

 その言葉を聞いた板前は、マグロのもっとも敏感な中トロにそっと指を這わせてみせる。すでに冷えきっていたはずのマグロの身体が、釣れたて同然にピチっと跳ねた。

「あまり意地を張るな……俺の店の上客はスキモノでな。腐っても鯛、お前はマグロだが……このくらい熟成したやつが好きだってやつもいるのさ。せいぜい、お客さんを悦ばせろよ」

 途端に、何をされようと仕方がないのだ、心を捨てていればどんな苦難も受け入れられると諦めかけていたマグロの思いに変化が生じた。身体を煮付けにされようとも、心までは煮付けられてたまるかという気持ちが生まれた。

「本当にいいマグロだ……これくらい反抗心のあるほうが、捌きがいもあるってもんだぜ。でも、その強情もどこまでもつかな? まずはお前が余計な気を起こせないように、その身体を締めあげてやる」

 いうなり、板前が取り出したのは昆布だった。途端、恐怖に支配されたマグロの心もどこ吹く風、慣れた手つきでマグロの身体は昆布によってあっという間に締め付けられた。

 マグロの身にじわじわと、昆布の旨味成分が侵入してくる。その異物感に抗おうとも、強すぎる昆布の締め上げによってマグロは身動きひとつ取れない。

「ううっ……こ、こんなもんでお前なんかに屈服してたまるかよ!」

「へえ、マグロのくせにタイしたものだ。でもサバサバした減らず口を叩いたところで、お前の身体はとっくに乗っかっちまってるじゃねえか……脂がな」

 マグロの反応を見た板前は水を得た魚のように恍惚とした。にやりと笑って銀色の物体を取り出す板前。マグロは思わずたじろぎ、思わず逃げ出そうにもまな板の上のマグロ。たしか海の中で友人のビンチョウマグロから聞いたことがある。あれはマグロ界でも悪名高い『スプーン』というやつだ。板前はスプーンをゆっくりと中落ち部分に這わせると、冷たい感触がマグロを襲う。

「ひあっ……お、おい、何をするんだ。俺の身をこそぎ落とすんじゃない!」

「そう慌てるなよ。お前の大事な部分をトロトロにしてやるだけだ……そう、ネギトロにな」

「や、やめろ。ネギと合わせるのはやめろお!!」

「くっくっくっ……この黒光りした海苔を見ろ。やっぱり軍艦に限るな」

 手早く握られていくマグロ。次第に調理されていく自分の身体に、それまでとは違った思いを抱いていた。マグロの意思に反してその身体は、調理されることを受け入れようとしているのだ。

「くそっ、俺の身体はどうなっているんだ。こんなの嫌なはずなのに、勝手に脂が乗ってきてしまう……!」

「いい加減受け入れろ……お前の身体は欲しがっているようだぞ。へいらっしゃい、へいらっしゃいってな」

 そのとき、厨房にもう一人の怪しい男が現れた。

「おお、そのマグロ、今日出すのか。ちょうどいい、カマの部分もらっていくぞ。今日は団体客にカマ焼きを出さないといけなくて……」

 男がカマに手を伸ばした途端、板前はその手を強く叩き払った。

「おい、そのマグロは俺のだ。頭のてっぺんから足の先、身も心もな。わかったら向こうへ行くんだ。でないとお前の解体ショーをするぞ」

「ちっ、ひとりだけでお楽しみってことかよ。まあお前は心から惚れ込んだ魚しか捌かないやつだからな。どうせそのマグロも捌くのが惜しいくらいぞっこんなんだろ」

 男が溜息をついて厨房を出ると、板前とマグロの目が会った。それまではまるでホタルイカのように怪しい光を宿していた板前の瞳は、コハダのように美しい光を携え、そのカレイさにはマグロの胸が高鳴ることもサーモンありなん。

「お前を市場で見つけたとき、こいつを捌けるのは俺しかいないと思った。そしてお前もきっと、俺に捌かれる運命なのだと。他の誰にも触らせてたまるか。お前は一生、俺のものだ」

「お前、そんなに俺のことを……」

 そのとき、マグロの心を縛り付けていた鎖が解け、全てを悟った。そうか、俺は自分を捌いてほしい相手を心の内でずっと探していた。魚心あれば水心、板前に触れられるたびにマグロの身体が敏感に反応したのも、二人がこれ以上ない相性で結ばれていた証拠だった。

 気付いた瞬間、板前に触れられていた部分が、急に熱を宿してきた。体温が移って温かくなったのだ。それまで反抗心だらけだったマグロが急に身体を投げ出したのを見て、板前は怪訝そうに尋ねる。

「いいのか、お前は俺に捌かれてしまうんだぞ」

「お前は板前なんだろ。とっとと俺を捌いてしまえ。こんな恥ずかしいこと、二度も言わせるんじゃないぞ、バカ野郎」

 マグロの言葉を聞いた板前はカンパチ入れずに包丁を手に取り、マグロの身体をおろし始めた。その繊細な指使いは、マグロにとって頼みのツナと言える部分に、抗いがたき快感を与える。あれだけ自己中で、粗暴だったあの男に、こんな優しさが残っていたなんて。 

 二人はたしかに感じていた。お互いの愛を。これだけが、二人のコミュニケーションなのだと。

「ほら、感じるか。包丁が入ってるぞ。もうこんなに深く……」

「ああっ、握って! わさびをつけて、もっと手早く握って!」

「いいぞいいぞ、お前を必ず美味い握りにしてやる。入れるぞ、入るぞ、シャリの中に空気が!」

「マグロ……乞うご期待!」 

 こうしてマグロは骨ひとつあますところなく、板前に捧げた。まな板のうえで繰り広げられる、二人だけのおさかな天国。捌く者と捌かれる者、はたから見れば歪んだ関係かも知れないが、通じあっていた二人の心は確かに、愛という大海原を回遊して、我々の胃袋に収まったのだ。

 

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