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たしなみ指南

ショートショート

カンカン照りの江戸の町。真昼間から働きもせずに、薄暗い長屋の汚れた床の上。でっぷりとした立派な体躯をごろりと寝かせているのは大工の熊五郎である。

江戸っ子の血を引いており、その生まれ育ちを誇りに思いながら、如何せん人付き合いの下手な男だった。大工としての腕は立ち、仲間内からもその技術を高く買われ、体力の有り余る身体は少しばかり難儀な工事を屁とも思わなかった。

しかし、とにかく孤独であった。付き合い程度の酒も断り、仕事の間は必要最低限の言葉以外を口にせず、日が暮れて作業が終わればまっすぐにオンボロ長屋へと帰る。近所付き合いもない。開けっ広げな性分の多い大工の中ではどうしても浮いた存在になるのである。

『俺には、帰ってからの楽しみがあるんだ。悪いな』

誘いを断る時の決め台詞だ。寡黙でどこか陰のある巨男が毎日のように足早に帰りたくなるほど、魅力的な楽しみとは何なのか、大工仲間の間では様々な予想が囁かれた。

ひとりでひたすら酒でも呑んでいるんじゃないか、いやよほど別嬪な女を囲っているに違いない、どこかで危ない博打でもしているのではないか、実は写経で精神を諌めているらしい……どれも見当違いであり、また誰も熊五郎にそれを訊き出すことはなかった。

特に体調が悪いわけではないがこの日は気まぐれに仕事を休み、床の上で寝転がる熊五郎の手にあったのは、一冊の本だった。

「ああ、いいなあ。やっぱり絵はいい。俺はこうしているときが一番幸せなんだ……」

鼻息荒い熊五郎の鋭い視線が注がれる本に描かれているのは、浮世絵、それも春画である。

絵が好きだった。とはいっても、芸術的な嗜好があるわけでも、造詣が深いわけでもない。熊五郎が好きなのは、戯画や春画といった大衆的な作品であった。

「ああ、この絵師が描く女性の尻の曲線はなんとも言いがたい美しさだ。それにこの少女画の目のキメ細やかさ、なんだろうな。この胸に込み上げる熱い思いはなんと言えばいいんだ」

この感情に『萌え』という名が付けられるのはそれから二百年ほど後の話である。

狭い長屋の中で熊五郎を囲んでいるのは、本の山。どれも、熊五郎が幼い頃より収集してきた戯画・浮世絵・春画の数々だった。特に女性が描かれているものを好み、性格が災いして女性と縁を持つことのない熊五郎にとって、紙の上に描かれた女性の姿は一時ばかりの恋人のようであり、絵を見つめその世界に入り込むことで、熊五郎は甘い逢瀬を重ねたような気分に浸ることが出来る。所謂現実逃避であった。

しかし、その現実逃避に熊五郎は情熱のほとんどを捧げていた。仕事が終わればまっすぐ長屋へ帰り、眠りに付くまで春画を堪能する。そんなことを若い時分から続けていた影響なのか、熊五郎の性分はとても江戸っ子と言い難いほどに、少しずつ屈折していった。それに伴い、口数も減っていったのだ。

「さて、次はどの絵を眺めようか。そういえばそろそろ、新刊が出ると聞いたもんだが……」

部屋を埋め尽くす絵の数々を長め、恍惚とした表情を浮かべる熊五郎。すでに歳も四十近く、伴侶も友人もないが、その巨体で充分な幸福を感じ取っていた。

そんな熊五郎の陶酔を断ち切ったのは、引き戸を誰かがガンガンと叩く音だった。

「なあ、兄貴。いるんだろ、熊五郎の兄貴!」

 聞き覚えのある高い声。現実に引き戻された熊五郎は不機嫌になりながらも戸を開けた。

「なんだ、勘七じゃねえか。一体どうしたってんだ、藪から棒に」

 家の前にいたのは、近所にある薬屋の息子、勘七だった。まだ二十歳前と若く、顔つきにどこか子供らしさを残している青年である。なぜか幼い頃から熊五郎を兄貴と呼んで慕っており、また人付き合いの少ない熊五郎にとっても唯一と言っていいほど心許せる存在でもあった。

「実はさ、兄貴に折り入ってお願いがあるんだ」

「わかったから中に入れ」熊五郎は勘七を招き入れた。

「で、お願いってのはなんだ? 金を貸してくれってのは無しだぞ。どちらかというと、お前の家のほうが金持ちなんだからな」

「そんなことじゃないよ。実は俺もそろそろ、親父の薬屋を継がなくちゃならないんだ」

「そいつはよかったじゃねえか。お前は昔から勉強ばっかりで町一番の秀才だったからな。お前のあの偉そな頑固親父が、口を開きゃあ倅の自慢話ばっかり。そんなお前がどうして俺につきまとっていたのか、今でもわかんねえくらいだ。俺に限って薬はタダにしてくれよな」

「そう、俺は昔から勉学に打ち込んで、兄貴と遊ぶ以外はこれといった楽しみもなかったんだよ。だから、わからねえんだ。兄貴に教えて欲しいんだよ」

「教えてほしい? 一体何だ?」

 勘七はいたって真剣な顔で答えた。

「嗜みだよ。粋な江戸っ子の嗜みってものを知りたいんだ。俺は勉強、店のこと、そして兄貴とこうしておしゃべりをする以外の何も知らない。楽しみってもんがないんだ。そうやって若いうちから何も知らないまま店を継いで、店のことしか知らない人生を終えてしまう。そんなの御免なんだよ。何かこう、人生に張りが出るような嗜みってものをひとつくらい覚えておきたいのさ」

 まくし立てられた勘七の言葉に耳を傾け、熊五郎は訝しげな表情を見せた。

 嗜みを知らない。真面目で一本気な勘七では仕方のないことかもしれない。

 教えてやっても構わないが、正直で熊五郎の言葉ならなんでも信じてしまう勘七のこと。下手なことを教えてしまえばその後の人生に関わるかもしれないと思うと、慎重に決断せざるを得ない熊五郎であった。

「たとえば勘七。お前、酒は?」

「俺、下戸なんだよな」

「博打は?」

「おっかなくて手が出せねえよ」

「なんだ、江戸っ子のくせに骨のねえやつだな。じゃあ、女は? って、お前にゃまだ早かったかな」

「お手伝いの姐さんと懇ろになったけれど、あまり楽しくなかったな」

 熊五郎は壁を叩いた。彼はまだ童貞だったのだ。

「そういえば、裏の長屋のミヨちゃんともやったけれど、いまいちだったぜ」

 ミヨちゃんは熊五郎が密かに憧れていた少女だ。熊五郎の目から血の涙が流れた。

「そんなことよりさ、兄貴なら知っているんだろ? 江戸っ子の粋な嗜みってやつをさ。なあ、教えてくれよ」

 歯ぎしりを抑えた熊五郎は呼吸を整え、少し考えて口にした。

「とはいっても、人には好き嫌いや向き不向きがあるからな。まず、いろんな嗜みを挙げてお前に向いてるかそうじゃねえかを考えていけばいい。どれ、いっちょ町にでも出て、いろんな人の嗜みを見てみりゃいい。お前に合いそうな粋な嗜み、俺が見定めてやるよ」

 二人は江戸の町を歩き始める。いつもと変わらぬ活気に溢れている。しばらくすると、歌舞伎座の前を通った。

「兄貴、歌舞伎ってのはどうだい? なんでも今一番人気の嗜みだって言うじゃないか」

「馬鹿野郎、お前はみんながやっているからっていうだけで、自分もやるっていうのか? お前には主体性ってものがないのか。大体な、こういう人気の代物っていうのは、流行れば得する誰かが裏で一枚噛んであれこれ手を尽くした結果なんだよ。みんなそれに騙されているだけの馬鹿なのさ」

「へえ、知らなかった」

「魅力のないものでも、流行っているかのように仕向けりゃ大衆が釣られて人気商品の出来上がり。そのために数々の手間がかけられる。これを『数手間(すてま)』っていうんだよ。なんだってお前、こんなつまんねえものが流行るわけねえじゃねえか」

「兄貴は歌舞伎観たことあるのかい?」

「いや、ねえ」

「ないのにわかるのかい?」

「こんなものを観る奴は流行りの躍らされるのが好きな馬鹿なんだよ。すぐに飽きて廃れる一過性の文化なんだ、俺がそう言うんだから間違いねえ」

  熊五郎は流行りものに対してとりあえず嫌悪感を抱く癖があった。自分が愛する春画の大流行には耳を塞いでいる。

「兄貴は賢いなあ。じゃあ、あれはどうだい?」勘七が指差した方向には遊郭があった。

「遊郭? なんでえお前、女遊びはしたくないって言ってたじゃねえか」

「ちょっと違うんだよ。今、遊郭じゃちょっとした女達が流行っていてさ。『神田四十八娘』っていうんだけれど、若くい娘っ子が大勢で組を作って、客の前で演劇や民謡を一席するんだ。で、その娘達と一回握手できる紙が一枚四十文で売っているわけなのさ」

「手を握るだけで四十文! はぁ~、誰が買うんだそんなもん」熊五郎は目をむいた。

「でも一度に十枚も二十枚も買っていくやつがいるんだ。しかも客の中には女子供も結構多いくてさ。結構売れているらしい」

「やめとけやめとけ。そこまで黒い商いにお前が引っかかってどうするんだ」

「引っかかってるわけじゃないみたいだよ。確かに商売はがめついけれど、客はただ好きでその娘達を応援しているみたいなんだ」

「抱けもしない女にうつつを抜かすことの何が楽しいんだ。ありゃあさっきの歌舞伎と同じ。誰かの作った流行りに踊らされてるだけなんだよ」

「でも、娘達の民謡は江戸中で歌われているよ。それに、たとえばあの子供達もかい? あの子達は真剣に娘達に憧れているみたいだけど」

「だったら大きくなって遊郭に身でも売りゃあいいんじゃないのか。親も食い扶持が減って助かるだろうよ」

通りを抜けてしばらくすると、池の方へとたどり着く。周辺にはまばらに人の姿があった。

「兄貴、釣りはどうかな?」

「あんなもんは年食った爺さんがするもんだ。大体、糸を水に垂らしただけの一体何が楽しいんだ。鰹の一本釣りならともかく、阿呆丸出しじゃねえか」

「でも、一生物の嗜みになるっていうぜ」

「若い時分を池の前でぼけっと座るだけに使うのはもったいねえだろ。駄目だ駄目だ」

「じゃあ、囲碁や将棋はどうかな。俺、こうみえても結構強いんだぜ」

「はい駄目。あんなもんは陰気なやつが行うもんだ。じっと黙って盤を睨んでパチパチパチパチ、むず痒いったらありゃしねえ」

「だったらさ、句を読むのはどうだい? なかなか洒落ているだろう?」

「お前な。江戸の男だったら、もっと雄々しいことをしろってんだ。『マナとカナ 二人合わせて マナカナだ』とか、字数気にしてチマチマ色めいたことを口にするんだろ? もっと骨のあることをしろよ」

 勘七の提案を、熊五郎は片っ端から否定し続けた。思い当たる嗜みが見つからなくなり、ついに勘七は肩を落とす。

「兄貴、なかなか厳しいねえ。俺、嗜みを見つけられる自信がないよ」

「当たり前だ。俺は江戸っ子の中の江戸っ子だからな。粋じゃない嗜みを見分ける目はしっかり持っている。だからこそ、お前が誤った嗜みを持たないようにこうして骨を折っているんじゃないか」

 熊五郎はそう言い放ったが、事実はそうではなかった。そこに勘七に対する心配りなど、本当のところ全く込められていない。

 自分は人様に誇るほど大層な嗜みを持っているわけではないにも関わらず、脊髄反射のように他人の嗜みを頭から否定することにより、相対的に自分の価値が上がっているように錯覚してしまう。熊五郎はそれによる陶酔を感じていた。ただそれだけのことなのだ。

 二人は日が暮れるまで歩き続け、やがて熊五郎の長屋へと戻ってきた。二人で茶をすすっていると、勘七は周りに積まれている本に目を留めた。

「そういや兄貴、昔っからいつも本ばっか読んでるよな。意外と勉強家なんだな」

「違えよ勘七。これは絵だ。浮世絵に戯画、特にこれなんかは春画と言ってな……」

「俺には絵のことはよくわかんねえや」

「いいぜ、勘七。よく聞いてやがれ。これからお前に、春画の魅力をたっぷり教えてやる。まず日本っていうのはだな、こういう美しい絵を描く才能が……」

 それから熊五郎は四半刻ほど、どれだけ春画が素晴らしいのかを饒舌に説き続ける。ただでさえ普段は寡黙な熊五郎が舌を動かし続けた一日であったが、この時間は特に言葉を尽くした。昼の町では他者批判だらけではあったが、人には自分の嗜みが正しく清潔に見え、正しくないと自覚のある嗜みならそこに背徳的な魅力を感じ、正しくないと認めたくないなら懸命に言い訳を探すものである。

 そんな熊五郎の胸中には、勘七にも春画に夢中になってもらいたいという思惑があった。共通の嗜みを持つ者がいない寂しさを、日頃からどこかで感じていたからだ。

 熊五郎が語り終えるまで、勘七は時折感心したように頷くだけで、黙ってその言葉に耳を傾け続けた。

 熊五郎は一息ついて茶を飲み干すと、じっと勘七の目を見つめた。

「勘七、どうだ。いい嗜みは見つけられそうか? だったら、俺を見習ってみればいい」

「兄貴と同じ嗜みを持てってことかい?」

「そうだ。お前は俺を尊敬しているな。小さい頃から俺が何をやっているか見てきたんだろう? だったら何をするべきか。答えはもうわかっているはずだ」

 そう言って熊五郎は、春画をぽんぽんと叩いた。

 勘七は少し悩んだ素振りをみせたが、やがて合点がいったように、晴れやかな顔を見せた。

「そうだな。俺、兄貴と同じ事をしてみるよ。だって兄貴に倣えば、それは粋な江戸っ子のやることだからな。どうして気づかなかったんだろうな」

「全くだな。そうだ、どうせならこいつを持ってゆきな! 餞別だ!!

 熊五郎が手渡したのは『炉』と呼ばれる、年端もいかぬ少女が描かれた春画であった。表に出すと何かと騒がしい希少品である。

「いや、それはいいよ」勘七は拒んだ。

「いいから、とっとけとっとけ! なんならZIPで送ってやろうか? 何にせよ今日はいい日だ。また一人、粋な江戸っ子が生まれたんだからな。ハハハ!!

 同好の士が生まれる予感に胸を踊らせながら、熊五郎は大声で笑ってみせた。

 

 

 数日後、大工仕事を終えていつものように春画を読み耽る熊五郎の邪魔をしたのは、またしても引き戸を叩く音だった。

「熊五郎、いるんだろう! 出てこんか!!

 声の主は勘七の父親であった。頑固一徹の堅物親父として知られる薬屋の店主は、熊五郎の許しも得ないまま強引に戸を開き、顔を真赤にして乗り込んでくる。

「勘七の親父じゃねえか。どうしたんだい、こんな夜分に」

「どうしたもこうしたもない。お前が余計なことを教えたおかげで、勘七がいろんな人様に迷惑をかけてしまっているんだ! これが粋な江戸っ子の嗜みなんだと、くだらないことを吹きこみよって!」

 一瞬、呆けた熊五郎であったが、すぐに事情を解釈した。そして意地の悪そうな顔を耳まで真っ赤になった店主に見せる。

「ははあ……さては勘七のやつ、春画じゃ飽き足らずに本物の女に手を出しやがったな。真面目なやつほど、夢中になったら危ないって言うからな。だがな、親父さんよ。たとえ勘七が痴れたことをしたからといって、俺や春画を攻めるのは筋違いってもんだ。俺は山ほど春画を読んでいるが、女に手を出したことは一度もねえ。出せねえんじゃねえぞ。そして春画はただの紙だ。罪に問えるなら問いてみろ。すべては事を起こしやがった本人が悪いのさ。あんたの自慢の倅は、現実と紙の上の出来事の区別もつかないようなぼんくら息子だったってことだ」

「何を言ってるんだ、お前は!」その怒りが収まる気配はない。むしろ店主の顔は火をつけられたかのようにさらに赤くなった。

「倅が春画なんてもの、読んでたまるか! 俺がさっさと捨ててしまったわ!!

「あん? じゃあ一体どういうことでえ?」

「いいか。こいつがお前を見習った、粋な江戸っ子の嗜みだっつって、うちの倅ときたら」

 店主が目を見開いて続けた。

「町往く人様の嗜みに、片っ端からケチをつけるようになっちまったんだ」

 

(作者ツイッターアカウントは@nnnn330